尾崎翠ゆかりの地巡り・資料編

作成:西尾雄二=尾崎翠フォーラム実行委員
『ファイ人文論集鳥取電子版』編集人 http://www.phai-tottori.com

☞ 岩美町 岩井方面

① 西法寺~生誕の地

西法寺2000改修前の西法寺(2000年撮影)。

浄土真宗本願寺派、浄教山西法寺は、温泉街から少し離れた愛宕山の麓に位置しています。このお寺の本堂の後ろの、後堂と呼ばれる小部屋で尾崎翠は産声を上げました。明治29(1896)年12月20日のことでした。
母の尾崎まさは、西法寺第十世住職山名澄道の三女で、満27歳でした。父の尾崎長太郎は、西法寺の近くの岩井尋常小学校の主席教員で、35歳でした。この時すでに尾崎夫婦には、3人の男子(翠の兄ら)がありました。
西法寺の境内は、尾崎兄妹やいとこ達の格好の遊び場であったらしく、後の翠の作品でもしばしば触れられています。

「この寺は僕の幼い記憶にはつきり残つてゐる所だ。此の寺の広い境内が、幼い僕等の好い遊び場だつたからである。此処に来て先づ僕は到る所に幼い僕を見た。其の頃寺男に繁兄(しげあんや)といふのがあつて、僕はよく彼の首を両足でまたいで、その足を彼の胸の辺に垂れ、彼の肩に上体を据ゑた一種のおぶさり方をして(僕達はそれを天車(てんぐるま)と言ってゐた)漸くこれで手の達(とど)くやうになつた撞木の綱を握つて鐘を撞いたものだつた。
こんな思ひ出は、此処にはいくらでも転がつてゐる。」

~「無風帯から」1920年。『全集(上)』 p.62。

西法寺改修前西法寺彫刻は改修後も残された。

② 西法寺~後堂・離室(うしろどう・はなれ)

後の尾崎翠の文学の生成を見る上で、西法寺において特に重要な意味をもつのは、彼女が生まれたとされる「後堂」でしょう。文壇デビュー作「無風帯から」は、若い男性「僕」による書簡体小説ですが、その書簡は「Sといふ寺」の「離室(はなれ)」で書かれていることになっています。この小説の方位の中心は、そこにあります。

「家はSといふ寺の、鐘楼に近い離室を借りてゐる。この寺は僕の幼い記憶にはつきり残つてゐる所だ。此の寺の広い境内が、幼い僕等の好い遊び場だつたからである。」

~「無風帯から」同上。

この離室が、実は後堂であったことが、後の記述によって判明します。

「僕と光子はT市からI村へ移つた。そしてこのS寺の鐘楼に近い離室(はなれ)に入つた。離室といつても、何処の寺にもある、本堂の後ろの沢山な部屋の一つだが、この部屋はその一番端で、一つ丈け突き出た明るい部屋なのだ。」

~「無風帯から」『全集(上)』 p.103。

また、この部屋は、尾崎翠にとっては、単に自分が生まれた場所というばかりではなく、様々な思い出が付着している、かなり意味深い場所であったようです。初期作品には、次のような箇所が見られます。もう20歳に近い(と推測される)ヒロイン「春路」は、久しぶりに生まれ故郷へ帰って行きます。

「伯父と伯母と四人の従妹弟とが山の麓の、朱欒(ざぼん)の実る家にさびしく住んでゐる。それは春路の母の生家であつた。
かすかな幼年の心が春路の胸を去来する。裏の障子を明けて山の樹々の梢を見あげてゐる彼女の瞳に祖母のすがたがうつヽた、此の家を中心として祖母に愛された思ひ出はいくらもある、[……]。

~「悲しみの頃」1916年。『全集(上)』 p.42。

この「祖母に愛された思ひ出」の染みついた部屋のある家は、母が生まれた家でもあります。西法寺という場所が二重三重の、どころか数え切れない「思ひ出」に彩られていることを示す「悲しみの頃」のこのパッセージは、先の「無風帯から」の引用とも見事に響き合うでしょう。

「こんな思ひ出は、此処にはいくらでも転がつてゐる。」

~「無風帯から」前出。

③ 西法寺~後堂と後期作品

後堂についての記述は、さらに興味深いものへ展開して行きます。「僕」の静養に伴って、妹の光子もT市からI村へと移るのですが、S寺に着くと、光子は早速に自分の部屋をつくろい始めます。

「此部屋は僕等に充てる為めにかなりきれいに居心地良く準備されてゐたが、這入るとすぐ、光子は自分丈け廊下を隔てたすぐ次の部屋に移つた。その部屋は丁度本堂の真後ろに当つた、僕の部屋よりすこし暗い部屋だつた。」

~「無風帯から」『全集(上)』 p.103。

「多分経机の不要になつたのだらう、一面に黒ずんだ古びた一閑張りの細長い机を彼女は窓の所に据ゑてゐた。それが、畳もすこし古びた方だつたし、僕の部屋とはすこし暗くて、一体にしんみりとした部屋の調子に程よく似合つて、部屋の中にはいつでも懐かしい憂鬱とでも言ふべき気分があつた。」

~同上。

「T市から用意してきた物か、畸形的な感じのする粗末な素焼きの花瓶が、机の側の畳に上に置かれて、時にはしほらしい野菊や桔梗が、時には何の葉か無骨な青い枝が殺風景に挿してあつた。」

~同上。p.104。

兄と妹が離室のような、他と距離を置いた空間で、部屋は別々ながらも同居する、という設定は、後の「第七官界彷徨」を思わせないでもありません。また「畸形的な感じのする粗末な素焼きの花瓶」は、やはり「第七官界彷徨」の町子の机に置かれた、三五郎作の粘土製のスタンドや、針金に糸を編み込んだ町子作の不細工なシェードを思わせもします。
「何の葉か無骨な青い枝」は、素性や系統、品種やアイデンティティのはっきりしない、いわゆる「何処の馬の骨」のようなものであり、やがてゴロリと暴露されてしまう光子の血統上の異種性を予示しているとも言えるでしょう。
しかし、この暴露は、片方では、どのような正統的な素性といえども、元を糺せばたいした根拠はない、ということも暗示してしまいます。
例えば「第七官界彷徨」で語られる、人類のはるか遠い祖先としての蘚苔という形象は、近代的かつ尊大な「人間=男」の権威が、実は「何の葉か無骨な青い枝」程度のものに過ぎないと、ファウストを揶揄するメフィストフェレスのように、皮肉たっぷりに笑いながら、「ホレホレ」と顎でしゃくっているかのようです。
しかし、このようなことは、すでに作品解釈に立ち入ってしまっています。解釈は、慎重で厳密な検証を前提とします。ここでは、尾崎翠の生まれた「後堂」の小さな部屋が、彼女の後期作品にまで及ぶ、意外と大きな拡がりを持っているようだ、ということだけに注意しておきましょう。

④ 西法寺~田圃の道

西法寺と温泉街とは少し離れており、その間は一面の田圃であったようです。西法寺は山の麓に位置しているため、温泉からお寺へ近づく道は、あぜ道のようで、緩やかな登り坂でした。「無風帯から」の冒頭近くにこの道が描写されています。

「大抵毎日、朝と夕方と温泉にゆく。両方とも丁度熱の退(ひ)いて居る時分なので、ゆき帰りが好い気持だ。道は二町程の間を、多く田圃の中の細い道を通つてゆく。」

~「無風帯から」『全集(上)』 p.62。

この道は「無風帯から」のクライマックスの、きわめて重要かつ印象的なシーンの舞台となります。先の引用部分は、このシーンを準備する伏線であったか、と思われもします。
妹の光子が、実は異母妹ではないかという疑いとも確信ともつかない思いに悩まされていた「僕」は、ある朝、温泉へ行こうとするいつもの道で、向こうから光子がこちらへ歩いてくるのと鉢合わせします。

「或る朝の事だつた。僕は起きるとすぐ湯に這入りに出掛けた。本堂の前の石たヽみの上を歩いて、其所から道に続く石階を下りようとした時、僕は、僕がこれから行かうとする道(それは細い田圃道である)の向ふからこつちに歩いて来る光子と少年の姿を見た。僕は、彼女一人がそつと暗らがりに置いてある秘密に、無遠慮にも手を触れた様な気の毒さを感じた。僕は彼女の「秘密な愛」を少しも僕が気付かない所から来る安心を、出来る事なら何時迄も彼女に与へて置いてやりたかつたのだ。」

~「無風帯から」『全集(上)』 p.106。

その「少年」が、光子にとって異父の弟である事を、光子も「僕」もほとんど確信しています。しかし「僕」は光子の「秘密」であるだろうそのことを、何も知らないかのように振る舞いたいのです。
秘密が暴かれる事への畏れが「僕」にはあります。しかし「秘密」の方は、人のそんな気遣いなど何ものとも思わず、暴露される時は冷酷にも暴露されてしまう。逃げようも、隠れようもできない細い道で、兄と妹はすれ違わざるを得ず、一瞬眼差しを交わす。幾つもの複雑な思いが凝縮された眼の交叉。ほとんど露見した秘密のではなく、その暴露を避け、隠そうとしてきたことへの恥ずかしさ。
兄と異母妹、姉と異父弟とが出会うことによって否応なく向かい合わされる、血縁の畸形めいた錯誤。そこには、前面化されはしないにしろ、不義・不倫という彼らの父と母の犯した罪が、通奏低音の様にうなっています。ほとんどギリシャ悲劇の『オイディプス王』と同質の、真実の暴露の息の詰まる様な、深い緊張が、この細い道に漲っています。

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★ こぼれ話―岩井温泉入門 ①

【歴史】

岩井温泉の守り神である御井神(みいのかみ)を祀る御湯神社(みゆじんじゃ、式内社)は現在の温泉地より上手の、蒲生川を挟んで向こう側の山の中腹に位置しています。
御井神は別名、木俣神(きのまたのかみ)で大国主と八上姫との間に生まれた只一人の神です。名前の通り井(泉)を守る神で、御湯神社の史料から、創建は嵯峨天皇・弘仁2年、西暦811年であることが知られています。このことから岩井温泉は少なくとも1,200年の歴史を有することが分かります。有馬、白浜、道後が日本の三古湯とされていますが、それらに準ずる古湯と言うことができるでしょう。
愛宕山ふもとの西法寺に隣接して、天台宗医王山東源寺(とうげんじ)がありますが、ここに祀られている薬師如来像は近辺からのの信仰を集め岩井温泉は古くから繁栄していたようです。戦国時代には温泉も荒れ果てましたが、藩政時代になると鳥取藩代々の藩主は温泉の再興・整備・振興に努め再び温泉の繁栄の礎を築きました。
岩井温泉は隣国・但馬へ通ずる「但馬往来」に面し、「宿」とされ制札場や宿駅も設けられ、湯治客の他にも旅客も入湯し、なかなかの賑わいであったようです。
明治になり、山陰鉄道も開通すると、大阪京都からもアクセスしやすくなり、ますます岩井温泉は人を集め、旅籠・旅館も数を増やし、一時期は鳥取県内の宿泊客の半数までを岩井温泉の客で占めた、とも言われています。大正から昭和初期がその絶頂期であったようで、ちょうど尾崎翠の教員時代と重なっています。
昭和9年6月に温泉街を大火がなめ尽くしたが、その後復興は早く、現在「ゆかむりギャラリー/尾崎翠資料館」として活用されている木造三階建ての「花屋旧館」はこの昭和9年にいち早く建てられたものです。

【湯かむり】

岩井温泉には「湯かむり」という、江戸時代から伝わる、独特の入浴法が伝わっています。頭に手拭いを乗せ、短い柄杓で湯を被り続けるというもので、調子の良い「湯かむり唄」に合わせて柄杓でぽんぽんと湯を叩きます。少しでも多く湯の効能にあやかるためとも、湯治の徒然(つれづれ、退屈)を慰めるため、とも言われています。
尾崎翠の頃にはまだこの風習は生きていて、次のような俚謡が残されています。

岩井の里の夕暮れは、
湯端(ゆばた)の町の唄の声、
ポンポンポンと湯をかぶり、
湯かむり唄の賑はしや。

~「岩井の里」1922年。『全集(上)』 p.12。

この風習は、現在は保存会によって伝えられています。

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⑤ 共同浴場

藩政時代、岩井温泉は代々の鳥取藩主によって積極的に整備・振興され、藩主もしばしば入浴しました。藩主が入浴した高級な浴場は「御茶屋」と呼ばれ、一方湯治客や旅客など一般の民衆の浴場は「入り込み湯」と呼ばれていました。明治維新後、この「入り込み湯」が地区に払い下げられ、現在に続く「共同浴場」となりました。
岩井の湯は別名「白銀(しろがね)の湯」とも言われ、無色無臭の透明な泉質です。

「静かな心で春路は朝の湯に浸つてゐた。すき通つた温泉の中に彼女の肉体が蒼白く、いつまでも動かなかつた。従姉弟達は頬を紅くして唄をうたつたり手拭で大きい球をこしらへて騒いでゐる。春路もいつしかその群にはいつてタオルを胸にかけながら湯の中で歌つた。
「まあ姉さんの白い手」
従妹は不意に大きな声でとびかヽつて来て、からだを沈めたまヽ小さい櫛を髪にあてヽゐる春路の手をグツと下の方に引いた。[……]一日のうちにこんなに児供らしい歓楽は幾度もくりかへされた。向ふの家の二階から流れて来る三味の音をきヽ乍ら春路はいつまでも石鹸の泡を腕に巻きつけてゐた。熱い頬を夜風に吹かれてかへる時、明るい二階を見上げて其処から洩れる女の肉声に、湯の宿らしい故郷にふさわしい心になってゐた。」

~「悲しみの頃」1916年。『全集(上)』 p.43。

共同浴場2002年に新築オープンされた共同浴場、湯かむり温泉。

⑥ 蒲生川と岩井の風土

岩井温泉の傍らを流れる蒲生川は、翠の岩井関連の作品では直接触れられてはいませんが、いくつかの点で重要です。
まず、この川の伏流水が地中深くに染み込み、この辺りの地下100メートルにまで埋まっている火山性の岩石によって熱せられ、その岩の割れ目を伝って上昇し地表に湧き出している、ということです。温泉の傍らを流れている、というよりは、川と温泉は一体であり、岩井という土地の性格の核心を成しています。
次に、この川は、岩井では中流域ですが、やがて日本海へ注いで行きます。その河口が、翠が代用教員時代を過ごした網代の港そのものでした。岩井と網代は、一本の川で結ばれています。
第三に、蒲生川に掛かる「岩井大橋」からは、家の壁や屋根に遮られず、360度の岩井周辺の遠景を眺めることが出来ます。この遠景の描写は、尾崎翠が書いた様々なパッセージの中でも、最も有名なものの一つでしょう。

「帰つて来てからもう一ケ月になる。山陰道の秋も深くなつた。二週間ばかり前からT市を出てこの温泉に来てゐる。此処はいつか君にも話した事があると思ふが、僕の生れた土地で、T市から五里ばかり離れた、中国山脈の中のI村である。
何方を向いて見ても、眼に入る物は骨のやうな山脈ばかりだ。「骨のやうな」とは、この山脈の秋から冬にかけての感じを言ひ表すに最も適当な言葉だと僕は思ふ。寂寥の喰ひ入つた――寂寥其物である様なこの山脈は、全く巨獣の脊骨としか思はれない。」

~「無風帯から」冒頭。『全集(上)』 p.61。

中国山脈は時として中国脊梁山脈と呼ばれることもありますが、それは中国地方(5県)の中央を東西を貫いて1500メートル級の峰々が走っているからです。岩井温泉周辺に見える山はせいぜい500メートル程度のもので、中国山脈の支脈の、そのまた支脈と言った方が正確でしょう。しかし、そのような数字の多寡によって、「寂寥」の深さが測られるものでないことは、言うまでもありません。

蒲生川早朝岩井の蒲生川ではないが、川下の河口近くから蒲生川の上流を臨む。

⑦ 三つの同一フレーズ

尾崎翠の読者であれば、先の引用中の「秋から冬にかけての」が、そっくりそのまま「第七官界彷徨」の冒頭で繰り返されていることを、よくご存知でしょう。念のために引いて見ます。

「よほど遠い過去のこと、秋から冬にかけての短い期間を、私は、変な家庭の一員としてすごした。そしてそのあひだに私はひとつの恋をしたやうである。」

~「第七官界彷徨」1931年 。『全集(上)』 p.277。

しかし、この同じフレーズは「無風帯から」よりさらに前の時期に、すでに書き付けられていました。先にも引いた「悲しみの頃」の一節。

「[……]女の肉声に、湯の宿らしい故郷にふさわしい心になつてゐた。その心に時々しのびやかによつて来て手をふれる影があつた。それは海に住んで秋から冬へかけて春路の心を領した影であつた。ジヤンヌの悲しい一生涯を通して一そう強く春路の胸に頭をもたげた人の世のかなしみである。」

~「悲しみの頃」。『全集(上)』 p.44。

また、このフレーズが用いられないにしろ、彼女の多くの後期作品の時間が、この「秋から冬にかけて」であることも容易く検証できることでしょう。

⑧ 父・長太郎と岩井小学校

岩井小学校2000

翠の生まれる4年前、明治25(1892)年、校舎の新築とともに、父・長太郎は岩井尋常小学校へ赴任しました。満31歳でした。当時の校長は、この小学校の創立者にして初代校長の渡辺直定でした。渡辺は、御湯(みゆ)神社の神官でもあり、特に漢学に優れ、長太郎も渡辺の薫陶を受け漢学の教養を磨かれた、と言われています。
当時の校舎が124年後の現在でも、ほぼ新築時の姿のまま残されています。玄関ポーチ、二階ベランダ、上げ下げ式窓などの洋風の特徴が見られ、木造校舎建築としては鳥取県最古、岩美町保護文化財です。1998年の浜野佐知監督作品『第七官界彷徨―尾崎翠を探して』のロケも行われています。
翠誕生から3年数ヵ月後、明治33(1900)年、長太郎の転勤にともなって一家は岩井を離れ、鳥取市へ向かいます。この時翠は満3歳になったばかり、はっきりとした記憶はあるべくもないが、後の作品で次のように述懐しています。

「父と母と三人の兄と一緒に、一家が町へ引こした時、春路は幼い女の子であつたと聞いた。その時、四人の兄妹はどんなに児供らしい心の環をつないで此の故郷をはなれたであらう。けれどその心を今日の春路は覚えてゐない。」

~「悲しみの頃」。『全集(上)』 p.42。

岩井小学校

⑨ ゆかむりギャラリー/尾崎翠資料館

岩井温泉の花屋旅館旧館の一室を活用して、岩美町と岩井温泉旅館組合により「ゆかむりギャラリー/尾崎翠資料館」が開設されています。
尾崎翠の文学が生まれ育った岩井温泉と、岩美町の自然・風土・文化を紹介し、多くの方々に尾崎翠の文学にふれるきっかけを提供するとともに、岩美町内の翠のゆかりの地をわかりやすく案内・解説するために、平成11(1999)年12月20日、翠の103回目の誕生日にオープンしました。
その後、平成23(2011)年、第11回目の「尾崎翠フォーラムin鳥取」が初めて岩美町で開催されるのを機に、資料館としてより高度に機能するよう、展示のリニューアルが行われました。その際の展示のタイトル「翠の宇宙」は、彼女の帰郷後の長編詩にちなんだものです。

「さはれヰリアム
にんげんは
まこと、考へる一本の葦
一本の
痩せた
ものを考へる葦
一本の植物、細いあしのなかに
たましひは宇宙と広い。」

~詩「ヰリアム・シヤアプ」1933年、『全集(上)』 p.16。

翠資料館2000オープン時の写真。

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★ こぼれ話―岩井温泉入門 ②

【サイエンス】

岩井温泉周囲の地層は、主に「岩井火砕岩層」と呼ばれる火山性の岩石層で、地下100メートルにまで及んでいます。約2500万年前以降に日本列島が形成され始めた時代の激しい火山活動によって生じたものです。この地層深くへ蒲生川の伏流水が濾過されつつしみ込み、熱せられ、この岩積層の割れ目を伝って上昇し、地表で湧き上がり、温泉の恵みとなるのです。
泉質は「カルシウム・ナトリウム-硫酸塩泉」で無色、透明、無味、無臭で、別名「白銀の湯」とも呼ばれてきました。地表での温度は47.6℃で、熱すぎないので水で埋める必要がなく、源泉掛け流しであることが大きな特長となっています。

【伝説】

上の「サイエンス」に照応する、次のような伝説が残されています。
清和天皇の頃(平安時代、9世紀後半)に右大臣を務めた藤原冬嗣(ふゆつぐ)の子孫とされる冬久(ふゆひさ)は宇治に住んでいたが、訳あって都を離れ流浪の身となった。この地に辿り着くと、どこからかフッと神女(薬師如来の化身であった)が現れ冬久に言うには「我は医王なり、汝を待つこと久し」と、持っていた杖で傍の岩を砕くと、モクモクっと湯気が立ち、割れ目からこんこんと湯が湧き出るではないか。
「この湯を浴びよ、病すなわち癒えるべし」そう言って神女は山の方へ飛び去った。不審に思いつつも言われたとおりに湯を浴びてみると、彼が悩まされていた皮膚病がたちまち快方のきざしを見せ、7日で完治したという。冬久は感謝の印に自ら薬師如来の木像を刻み、丁重に祀り、湯を浴場として整備し、里の民衆に開放し保養を与えた。人々は感謝し、冬久が都で住んでいた宇治にちなんで彼を「宇治の長者」と呼び慕い、長者は長く栄えた。岩から湧いた湯なので、岩井の霊泉と呼ばれるようになった。薬師如来像を祀った寺が現在の医王山東源寺である……。
温泉の効能を誇張し、お薬師さんの霊験あらたかなるを讃え、縁起の良いハッピーエンドのストーリでー、多くの入湯客を呼び寄せる宣伝用の分かりやすい「お話」で、岩井や宇治(実在の岩井の隣村)の地名を説明するものにもなっています。しかし「岩の割れ目から湯が湧いた」というのは、「サイエンス」で説明したとおりで、あながち荒唐無稽とは言えないでしょう。

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☞ 岩美町 網代・大岩方面

⑩ 海との出会い~「海と小さい家と」(1)

「私はとうとう海に来た、小さい家をも見た。
あの長いながい沙の上を歩み、さうして潮の香をかいでは、海を眺め乍ら、私はとうとう此処まで来たのである。夏の日本海は、私の前にその青い色をひろげてゐる。
登り切つた太陽の下に、熱くほてつた沙をザラザラ踏んで、よほど疲れた身体が渡しの舟に乗せられた時、そして海につヾいた広い川の、ゆつたりした水がヒタヒタと舟にさヽやいで行つた時、私の体と心とはどんなに好い心持ちを感じ得たであらう。私の眼はどんなに美しい物を見たであらう。」

~「海と小さい家と―あるときの短い旅に―」1914年。『迷へる魂』。P.110。

「長いながい沙の上」を「ザラザラ踏んで」来たのは、約1.2キロメートルを緩やかに湾曲する大谷の浜でしょう。蒲生川河口で浜は途切れ、そこから網代へと小舟がつないでいました。
高等女学校卒業後、まだ代用教員として赴任する前に書かれたもので、全篇の内容から推測するに、夏とは言うものの、まだ5月初旬の網代への訪問をそのままに描いたものと思われます。「小さい家」は、その後彼女が下宿することになる「網代僧堂」です。

網代漁港現在の網代漁港。

⑪ 白帆の舟~「海と小さい家と」(2)

「たそがれの色が遥かむかうにつと浮んでゐる海をも浸しかかつてゐる。その薄暮の海にむかつて私共は歩んで行つた。
人の声が浜からひヾいて来出した、子供の手をひいて家に帰つて来る幾人かの女に出あつた、今日の夜を海ですごす夫を見送つてのかへるさであらう。その顔には何処となく淋しさがあつた。
『此の頃何が捕れるのです』
『いかが沢山捕れてな、――明日は浜がいかで一ぱいになる見事なものだ』
やがて海に白帆が見え出した。スルスルスルと気持ちよく浪の上をすべつてだんだん沖に出てゆく。」

~同上。P.114。

「白帆」は、この場合イカ釣船です。その舟の一つ一つに「淋しさ」を漂わす女達の「夫」が乗っているのです。この同じ光景を、2ヶ月ほど後に、彼女は異なった言葉で表現しています。

「スルスルと音もなく
青き胸ゆく白帆の上」

~「海の小曲」1914年、『全集(上)』 p.6。

散文では、ただ「浪」であったものを、詩として「青き胸」と書き直さねばならない、何かの理由が、彼女にはあったのでしょう。ちょうど、岩井の山脈を「巨獣の脊骨」としなければならなかったように。

網代漁港イカ網代漁港のイカ干しの一風景。

⑫ 網代の浜~朝

「恁(か)うしてしづかな日にあけぼのの浜を歩んでゐると絶え切れない歓喜が胸に漲つてくる。私は海に向つて坐つた。砂は左右に限りなくつヾいてゐる。此の世界に息をしてゐるものは私一人であつた。波の上には発動船が二つ紅い胴を見せてうかんでゐた。」

~「あさ」1914年。『全集(上)』 p.28。

尾崎翠は、まだ日の昇らぬ早朝から網代の浜へ出て、波打ち際を歩いたり、砂を手にとって肌触りを楽しんだり、坐り込んで波の動きを眺めたり、などしていたようです。村人から見れば、そのような若い、女の、代用教員で、西法寺の孫娘の様子は、かなり奇妙に思えたことでしょう。しかし、彼女がそのようなことを気に病んだ形跡は全く見られません。
紅い胴の発動船は、この頃盛んに行われていた、網代港の改修を行う作業船と思われます。

網代から砂丘僧堂側から見た網代の町と港。

⑬ 網代の浜~昼

「平らかな秋の入り江を舟がゆく。
膝のうへから眼をはなして海をながめたとき黒い着物をきた人の漕いでゆく櫓がキラキラと銀いろに光つてゐた。
「好え凪ぎだなあ」
ふりむくとさう言つた人も矢張手を止めて海を見てゐた。私は久しぶりに村のむすめさん達たちにまじつておはりをした。
[……]真昼のさびしさのなかに皆の指が衣のうへを走るおとが時々こヽちよくきこえた。
私は何か、しんみりしたうたを歌つてみたくなつた。」

~「昼の淋しさ」1915年。『全集(上)』 p.38。

女性代用教員であった翠には、女子児童たちに「おはり」(裁縫)を教えることも重要な職務であったでしょう。当時、高等女学校では裁縫はかなり厳しく叩き込まれていたようです。学校を離れても、村の娘達にとっては、そんな翠は頼りになる裁縫の指導者でもあったでしょう。
おだやかな秋の昼に、浜の一隅に若い女たちだけが集まってすごす「おはり」の時間は、忙しい漁村の暮らしの中で、ほっと出来る秘かな楽しみであったのではないでしょうか?
ぼんやり「凪ぎ」を眺めたり、歌を歌ってみたくなる余裕があるのも、その音が「こヽちよく」聞こえるような手仕事であったからでしょう。

網代漁港舟現在の網代の浜。

⑭ 網代の浜~夜

「「海が凪いて若い者が皆海に出なけりや」
叔母の言葉にいつしか私も一人で海に行くことを止めた。一人で海に出て行く夜、私の周囲に集まつてゐた村の若い人達の眼は恐くはないけれど。何となくその人々の沖に出てゆく夜を待つてゐる。さうして夜、私は損なはれない私の天地に只一人で居たいと思つてゐる。」

~「漁村の新生活より」1914年。『全集(上)』 p.27。

年頃の娘が、夜一人で浜へ出ることを「叔母」が危惧します。それはまた、僧堂の主である祖父や祖母のものでもあったでしょう。しかし本人はそのようなことを恐れてもいません。叔母の言葉を容れたのは、「只一人で居たい」だけのことで、若い漁夫たちが海へ出たあと、彼女は浜へ出るようにした、というのです。なぜ、彼女はそれ程までにして浜へ出たいのでしょう?

「突堤の黒い石に腰をおろしてその冷たい接触をしみじみ味はひながら足を波に許して居たい。そして私の考えへをいつ迄もいつ迄もつヾけたい、[……]」

~同上。

冷たい石や波を通して何かが彼女に触れて来ており、逆に彼女もそれに触れ返そうとしています。その触れ返しが「考へ」ることです。その相互の接触に比すれば、「若い人達の眼」も「叔母の言葉」も、この「私」には何でもなく、「いつ迄もいつ迄も」という永遠の時間こそが最も貴いものに思えるのです。

蒲生川蒲生川河口の夕暮れ。

⑮ 網代道場(僧堂)と村道

代用教員として尾崎翠が赴任したのは、大正3(1914)年7月のことでした。この時から大正6(1917)年1月までの2年半の間、網代村の一番奥の小高い場所にある西法寺の「網代道場」のお堂に下宿しました。
このお堂は祖父の山名澄道が住職を引退するに際し、老夫婦の隠居所兼布教所として、明治43(1907)年に建てたものです。
従来、翠はここに一人で下宿していたように考えられていましたが、実際には老夫婦と翠との三人での暮らしであったようです。
お堂の前に小さな庭があり、そこから段々を伝って村道へ降ります。緩やかにくねる細い道は、浜へ向かって少しずつ下ってゆきます。

「閉された家々のあひだの細いみちを私の足音ばかりが静かにひびいてゆく。その道にももう海の香りはあふれるばかりにみちてゐた。おぼろな、けれどしつとり落付いた朝の空気は私の肌に深くしみてゆく。」

~「朝」1915年。『全集(上)』 p.29。

その村道へ降りる段々の左手に、一軒の「お隣」がありました。そこに元気なお婆さんがいて、たぶん井戸端で、酢の物にでもするのか塩もみなのか、すごいスピードで胡瓜を刻みます。

「お隣のお婆さんが胡瓜を刻んでゐる。
カチカチカチ……。
ぎん色に光る包丁の歯の下から丁度美しい女の前髪に挿すやうな、青くふち取られた櫛が幾つも幾つも生まれてくる。
お婆さんの手の早いこと、いくら経つても止まない。カチカチカチ……。」

~「青いくし」1914年。『全集(上)』 p.26。

僧堂2000山名澄道僧堂と祖父・山名澄道の碑。

網代町並み2000迷路のような道を下って、浜へ降りる。

⑯ 網代隧道・通勤路

網代隧道網代隧道上部
この網代道場から、大岩小学校までの道のりは、片道約2キロメートルでした。村の細い道が、浜沿いのやや広い道にぶつかった角を左に曲がると、険しい崖に突き当たります。翠が赴任する2年前、大正元(1912)年、この崖に「網代隧道」が開通したばかりでした。
それ以前、この崖には壁面を這う細い径が刻まれているだけで、「坂越え八丁」と呼ばれる難所で、海へ転落する犠牲者も出していました。この隧道は、網代の村民の悲願の隧道だったのです。大岩へ通勤する翠も、この隧道の恩恵を大いに受けた一人と言って良いでしょう。
隧道を抜けると、あとは1.5キロメートルほど、蒲生川右岸の土手を遡ります。対岸では大谷砂丘が徐々に盛り上がってゆきます。岩本で橋をわたれば、大谷です。砂丘の東端が急に落ち込む崖に沿って、支流の日比野川(ひびやがわ)が流れています。その土手を200メートルゆけば、小学校です。
中期の佳篇「花束」は、学校のまん前に小さな舟(かんこ)でこぎ着けて、教え子の子どもたちが、新任の女先生を網代まで送る、という話です。

「「あの、午後(ひるから)かんこで迎ひに来ませうかつて。」子供はちよつと私を見上げて、誰かの伝言らしい口振りでさう言ひました。「午後兄(あんや)とかんこで△△へ行くだけん、先生もかんこで帰るなら、学校の前まで迎ひに来るけど。」
海続きの大川の支流が学校の前を流れてゐて、其処から本流に出て流れを下れば、祖父の家のある△△の入江になるのです。私は喜んで子供に舟を待つ約束をしました。」

~「花束」1924年。『全集(上)』 p.135。

「舟は兄と弟が交わる交わる漕ぎました。二町程で本流に出ます。本流は川幅の広い、水の澄んだ、ゆるやかな流れです。此処も右は村の道で、左には松林の続いた砂丘がありました。そして砂丘と川面との境に蘆が茂つてゐました。」

~同上

蒲生川河口より

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★ こぼれ話―花束の中味

「花束」に描かれている、舟から見える畑や村の様子、蒲生川の岸や砂丘のたたずまい、そしてラストの入江や曳船の位置関係や距離など非常に正確で、これは実際にあったことの描写に違いない、と考えてしまうのですが、しかし、ただ一点だけ不審なことがあります。それはこの作品のタイトルとなっている、子どもたちが作った「花束」です。

「舟の中で子供達は、私に一つの花束を呉れました。もうおしまひに近い浜豌豆や、河原撫子などの野生の花を集めたのを、烏麦の茎で束ねた、不細工な花束でしたけれど、子供達が私を迎ひに来る途々の岸で摘んでくれた物でした。」

~同上。p.136。

この作品の時間設定は、もうすぐ夏休みがはじまる、けれどまだ梅雨の明けきっていない7月中旬頃と思われますが、まず浜豌豆の花は普通には5月のものです。次に河原撫子は秋の七草の一つでもあるように、早くても8月の立秋後のものです。少なくとも、この辺りではそうなのです。
この頃にそれぞれ単独で、浜豌豆と河原撫子が見られることさえ稀なのに、その二つが揃うということは、更に稀なことと言わねばなりません。子供たちが無造作に作ったこの花束は、それ程に貴重な花束だったのです。

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⑰ 浜豌豆と松林

「その日は、海辺をよほど遠くはなれて、砂山をひとつ越えた松原の方へ歩いてまゐりました。誰も居ない静かな松の木の下で、ふと私の目にはいつたのは浜ゑんどうの花でございます。青々としたまるい葉の中に、房になつて咲いた花を見つけた時、私はすぐ其処に坐つて花を摘みはじめました。私は今まで、こんなに美しい花が砂の上に咲かうとは、少しも知らなかつたのでございます。」

~「浜豌豆の咲く頃」1917年。『全集(下)』 p.230。

「林の中には何の物音もなかつた。時々涼しい風が軽く、音も立てないで吹いた。彼は陽の沈んでゆく海の方角を背にしてぢつとしてゐた。彼の足のあたりには、浜豌豆らしい草が可憐な短かい姿をかすかに震はせてゐた。それは葉も茎ももう見分けはつかなかつた。たヾ闇の中でかすかにしなやかに震えてゐる短い姿でそれと知る事が出来る丈けだつた。彼は無心にそれを眺めてゐた。」

~「松林」1920年『全集(上)』 p.124。

前者は『少女世界』掲載の「少女小説」、後者は『新潮』掲載の「純文学」と言ってもいいでしょう。どちらも松林(松原)と浜豌豆とがセットになっています。
波打ち際を遠くはなれても、砂地であれば浜豌豆は咲くということと、そこが松林である、ということの条件に合致するのは、大谷砂丘のほぼ中央に位置する「日野神社」参道の松林と思われます。しかしこの松林は、この3、4年の松枯れ病で消滅してしまいました。

⑱ 大谷田圃

大谷砂丘の背後(南側)は、古代には内海でしたが、蒲生川の土砂の流れ込みによって埋め立てられ、汽水化し、やがて淡水の広大な沼沢となりました。それを、江戸時代に長い時間と労力をかけて干拓し、美田化したものが、現在のいわゆる「大谷田圃」です。それは小学校を取り囲み、東、南、西の山裾、そして北は蒲生川にぶつかるまで一面に広がっていました。

「私が先生になつたのは、夏休み間際でした。学校へ通ひ出して一週間経つた或る日のこと、これは夏休みが二三日の後に迫つた日でした。炎暑の最中で、学校のぐるりの田圃の稲の葉が、チラチラと陽炎を吐いてゐましたが、午後から夕立のきざしがあつて、重苦しい暑さの日でした。」

~「花束」『全集(上)』 p.134。

彼女の作品で、この箇所以外で「大谷田圃」が直接言及されることはありませんが、そこに広い田圃が横たわっていることを考え合わせると、「さみしさ」が一層引き立つ次のような場面があります。

「草野によみがへつた春の宵のしづけさの中を町へゆく汽車がとほつた。あかいともしびが山なみのあひだにかくれてゆくと、私は後のさみしさに又やはらかい草をむしつた。」

~「草に坐りて」1915年。『全集(上)』 p.33。

大谷田圃を南で縁取るのが、立岩山の裾を東西に走る山陰鉄道の盛り土です。町=鳥取へ向かう汽車の赤いテールランプが、駟馳山(しちやま)トンネルに吸い込まれて行ったのでしょう。田圃にまだ青々とした「稲の葉」はなく、冬枯れのまま放置され取り残されている田の風景の「寂寥」が、「私」に草をむしる、という無意味な手すさびをさせているかのようです。
岩井の山脈の「秋から冬にかけて」という「寂寥」をもたらす季節の移行の動きは、ここでは汽車の移行という単純なものの中にまで見出されています。彼方へと去ってゆくものは、必然的に、こちら側を置き去りにし、「さみしさ=寂寥」の中に取り残すのです。

⑲ 網代の盆踊り

浜辺は、小学校を除けば、村の唯一の共有の広場でもありました。出漁や獲物の陸揚げ、イカや魚の「しご」(処理や準備のこと)、干し場、網の繕いなど、漁に関わることはもちろん、葬儀なども行われたようです。しかし、村人たちが最も心待ちにし、力を入れたのは、何と言っても「盆踊り」であったでしょう。

「旧暦盂蘭盆だから折柄の月夜だ。月光のもとで、若い衆と娘は勿論、親爺も婆さんも円舞に加はる。」

~「初恋」1927年。『全集(上)』 p.170。

「いろんな踊り手が眼の前を通る。漁夫姿まるだしの刺子(さしこ)で押通してゐる父つあん、長襦袢に帯を結んだ凝つたの、あねさま被りで若返つた婆さん、派手浴衣に菅笠の娘、殊に今夜は避暑の連中が多いやうだ。海水帽を手拭ひでしばりつけた学生。洋服の少女。黒眼鏡の紳士。顔を包んだ黒い面紗の余りを帯の下まで垂れておさげに見せかけたお嬢さん。カーニバル祭の盛況だつた。」

~同上。P.172。

彼女の後期に近い作品で、踊りや見物人の様子が無駄なく的確に、生き生きとユーモラスに綴り出され、初期作品にはなかった描写の技法の冴えが見られます。このような火花を発する描写自体が、カーニバルなのではないか、とさえ思わせる程です。
しかしこの作品の面目は、そのような技法にあるのではありません。作家としての彼女の眼差しは、人々の単にユーモラスな様態と言うばかりではない、もっと深いところに届いています。

「此処に与吉君や為造君などの未婚者に取つて非常な面目は盆踊りの三日間の、長襦袢と手拭いで成るところの扮装なのだが、その長襦袢といふのが恋人の所有にかヽるもので、赤い花模様か何かをダラリと着流して、手拭ひを覆面兼粋に被つて、大いに色男然と踊るんだ。[……]恋人以外の襦袢でも間に合はして色男振つた奴は、後で非難される……さうだ。」

~「初恋」同上。p.170。

カーニバル特有の、日常のルールの一時的な侵犯として、男性が女性の肌着を身に纏って踊る訳ですが、この光景は現代の私たちから見ても、古い習俗と言うよりは、何かしら斬新な目眩のようなものを感じさせます。また逆に、女性が男装して踊る、ということもカーニバルでは許されているでしょうし、この作品はまさに後者をテーマとしています。
異性装においては、男性は女性性を、女性は男性性を幻想的に帯びて、二重化します。「幻想的に」という点が肝要であり、そのことによって女装した男性は、却って男性性を強調されて「色男」となるのです。逆に男装した女性も、その幻想の男性性との対比で、むしろ却って女性らしさを強調されてしまいます。それは、語り手「僕」が、美しくもない自分の「妹」に恋をしてしまう、程なのです。

「……いや決して美人ではなかつた。ただ月光と長襦袢が僕に夢を売りつけたのだ。」

~「初恋」同上。p.175。

説明するとややこしいのですが、尾崎翠のペンは、男性装した女性がもたらす幻想的な眩暈の細部まで的確に描写し、追跡しています。この兄と妹が、「無風帯から」の兄と妹「光子」の系譜を引いていることは明らかでしょう。光子もまた、一族の血ではない、異なる血を引いていて、「僕」の視線を引き付けつつ眩ます、二重の存在であったからです。
いずれにしろ、ここには、現代でもちっとも解明されていない、フェティシズムや性の倒錯の深いテーマ系が蠢いています。網代の盆踊りで、かって実際にこのような異性装の風俗が見られたのか、という歴史的検証も含め、民俗学、文化人類学、社会学、心理学……などからの慎重なアプローチが必要でしょう。この作品は古い風習の好奇的な記録や、郷愁的な残映などではなく、極めて新しい現代的な「問題」を見つめ、提起してしまっているのです。
「網代の盆踊り」は、一時期途絶えかかっていましたが、地元の「網代の盆踊りを伝承する会」の方々の努力によって、往事のままに復活されようとしています。

⑳ 因幡の海

「中国の山なみは未だ冬の囚人となつて、雪にとぢ込められてゐる。けれども私の好きな因幡の海にはもう春が来たのである。仮令(たとへ)後ろには恐ろしい冬が私をさいなむためひそんでゐようとも、私は今朝のひとときを春の海の情調にむかひ得たことをよろこび乍ら歩んだ。」

~「朝」1915年。『全集(上)』 p.30。

「因幡」は鳥取県東部の古い呼称で、海岸線で見れば、岩美町の浦富海岸から、鳥取砂丘、白兎海岸、浜村海岸を経て青谷(あおや)町の海岸までを言います。網代からは、遥か26キロ先真西に、青谷の岬(長尾鼻、ながおばな)が眺められます。この岬によって眺望を縁取られている海を、彼女は「私の好きな因幡の海」と呼んだのでしょう。
その「青谷の岬」は、彼女の初期作品(短歌も含む)にしばしば現れます。そのこと自体「青谷の岬」を特異なものにしていますが、更に特異なのは、土地の固有名がほとんど使われない彼女の初期作品中で、ほとんど唯一のそれだ、ということです。

「広い浜には若い漁夫がすこやかに肌を見せて、網の目から魚をはづしてゐた。銀色に光る新らしい魚はひとつひとつ砂の上へと落とされていつた。目をあけて沖を眺めたとき、青谷の岬が濃い水色に海を隈取つてとほくかげを引いてゐた。雪に閉ざされてたヾ寂しさをのみ語つてゐたみさきが何といふうつくしさに目覚めたことであらう。」

~「冬にわかれて」1915年。『全集(上)』 p.35。

引用の二つの作品のちょうど100年後に、この「因幡の海」の海岸域が、ユネスコ認定の「山陰海岸ジオパーク」とされたことは、奇しきことと言うべきかもしれません。

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★ こぼれ話―浦富海岸(うらどめかいがん)

「浦富海岸」の呼称は、昭和3(1928)年に「名勝及び天然記念物」に指定されたときからのもので、尾崎翠が網代に住んでいた頃にはまだありませんでした。しかし、千貫松島(せんがんまつしま)や観音浦(かんのんうら)などは名勝地として古くから知られており、「網代海岸」と呼ばれていたようです。鳥取藩二代目藩主・池田綱清が網代で舟遊びをした際「この島を松付きのまま我が庭に移し得た者には銀千貫を与える」と言ったことから千貫松島の名が付いた、というエピソードは有名です。
「浦富海岸」とは、岩美町の15キロメートルの海岸線のすべて(正確には港などの人工物を除く)を言う呼称ですが、時に浦富海水浴場と混同されているようです。浦富海水浴場は「浦富海岸」の一部なのです。
網代の東となりには、やはり漁港の「田後(たじり)」がありますが、二つの港は現在では沖合底引き網漁の重要な基地で、特に冬季には「松葉ガニ」で活気づきます(松葉ガニとはズワイガニの山陰での呼び名で、同じカニを北陸では「越前ガニ」と呼んでいます)。岩美町は、市町村単位で松葉ガニ漁獲量の日本一を誇っています。
戦後昭和23(1948)年、尾崎翠の親友の松下文子が鳥取を訪れ、久々振りに再会したとき、「二人はカニやカキを思い切り食べて話し合う」と、『定本尾崎翠全集』の年譜に記載されています。
松葉ガニ漁は毎年11月初旬解禁、翌年3月下旬までです。ぜひ岩美町内の旅館・民宿・料理店・道の駅などでお楽しみください。

【観光の問い合せ】岩美町観光協会 TEL 0857-72-3481
http://www.iwamikanko.org

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<参考資料>
『定本尾崎翠全集』全2巻 1998年 筑摩書房刊(『全集(上)』などと略記)
『迷へる魂』2004年 筑摩書房刊
『新編岩美町誌』2006年 岩美町刊
西法寺所蔵資料 
いわみガイドクラブ資料
他 

*作品の引用文は、原文と表記の異なる場合があります。