写真報告 第三部・ゆかりの地巡り

奇跡のような晴天に恵まれる!

2日目の10月2日は、尾崎翠ゆかりの地巡り。昨年までの尾崎翠フォーラムと違って岩美町に限定し、初期作品との対応を示した資料(西尾雄二さん執筆)を配布した。
危ぶまれた天候だったが、この日はかつてない好天となり、全国から参加した追憶ツアー参加者40名と、この日だけの現地参加者10数名が、バス2台で岩美町内の翠ゆかりの地を経巡った。

◉当日参加者はJR岩美駅に集合。アニメ「Free!」の舞台としても、岩美町は有名になった。

◉追憶ツアー参加者は、浦富海岸近くの2軒の旅館に分宿した。こちらは「かまや旅館」さん。

◉こちらは「さんげんや」さん。展望台や荒砂神社が目と鼻の先。

◉朝食後、浦富海岸に出るツアー参加者たち。空の青さと、海の透明度に目を見張った。

◉翠の父が首席教員を務めた旧・岩井小学校。1892年に建てられた洋風木造建築で、映画『第七官界彷徨ー尾崎翠を探して』でもロケした。

◉翠の生まれた西法寺。近年改修されたが、「無風帯から」他の作品でたびたび描かれた面影を残している。

◉鐘楼や池の手前にある「尾崎翠生誕の地」の石碑。

◉翠が生まれた後堂(うしろどう=離れ)の位置に設けられた部屋の内部。(撮影:青柳しの)

◉後堂の外側。かつてはこの窓の位置から出入りできたらしい。「無風帯から」を参照すると興味深い。

◉追憶ツアー参加者と、当日参加者が集まって記念の集合写真。

◉共同浴場「ゆかむり温泉」。西法寺から見ると、畑や民家の斜面をくだった先にある。

◉花屋旅館旧館の一室を借りて「ゆかむりギャラリー/尾崎翠資料館」が開設されている。

◉資料館内部。遺族から提供された翠の編んだセーターなども展示されている。

◉岩井温泉のメインストリートを歩いて移動する参加者。

◉蒲生川の橋の上から、翠が「巨獣の背骨」と呼んだ山並みを眺める。資料執筆の西尾さんが地形などを解説。

◉「寂寥の喰ひ入つた―寂寥其物である様なこの山脈は、全く巨獣の脊骨としか思はれない。」(「無風帯から」より)

◉岩井温泉から網代漁港に向かう途中、蒲生川の岩本橋近くで「花束」のかんこ舟の行き来を説明する西尾さん。後ろの関門が、かつては大岩小学校への支流だった。

◉岩本は河口にも近く、小学生でも先生を網代まで送っていける距離であることが分かる。右手奥が河口で、網代漁港につながる。

◉1912年に開通した網代隧道。このトンネルができる前は遭難者が出るほどの難所だった。2年後に翠が代用教員として赴任。

◉網代漁港側の隧道。大岩小学校に向かう通勤路だったので、翠も日々このトンネルをくぐったと思われる。

◉翠が下宿した西法寺の「網代道場(僧堂)」の後に建てられた、西法寺網代布教所。

◉この日は信者さんが玄関を開けてくれて、ゆかりの地巡りの参加者にお茶など振舞ってくれた。(撮影:空海の庭)

◉布教所の中に掲げられた、かつての網代道場の写真。まさに翠が下宿した頃。(撮影:青柳しの)

◉西法寺布教所から、昔ながらの家並みの間を下ってきた先に網代漁港がある。かつては浜辺だった。

◉網代漁港の小型船。現代の「かんこ」だろうか。蒲生川河口にはイカ釣り船が並んでいる。

◉堤防の先に鳥取砂丘、さらに遠くに「青谷の岬」を望むことができる。

◉ゆかりの地巡りの締めくくりは、浦富海岸島巡り遊覧船。(撮影:安藤優子)

◉浦富海岸は山陰海岸ジオパークエリアの一部をなす。花崗岩が日本海の荒浪によって侵食され、複雑な地形になったとか。

◉名所「千貫松島」。トンネルのように穴が貫通しているのは「海食洞門」と呼ばれる。

◉遊覧船をカモメの群れが追いかけ、エサをねだる。(撮影:青柳しの)

◉岩美町「ゆかりの地巡り」の後、鳥取空港とJR鳥取駅に参加者を送り、ツアーのオプションとして尾崎翠の菩提寺・養源寺(鳥取市職人町)を訪れた。

◉親族である山名立洋(りゅうよう)住職にお経をあげて頂き、線香をあげる。

◉尾崎翠の墓所で記念写真。

◉お墓まいりの後、養源寺本堂で山名住職のお話を伺う。翠が幼時の立洋さんのために縫った着物を見せてもらう。戦後、こんなモダンな生地があったのかと驚くセンス。




◉尾崎翠の次兄・哲朗は、山名住職の祖父にあたる。優れた仏教学者として嘱望されながら早世した。その哲郎が著者に名前を連ねる、子供向けの仏教書が発見され、この9月末に養源寺が復刻。出来たばかりの『おしゃか様から、しんらん様へ』を、参加者全員が頂く。