「追憶」について

尾崎翠が27歳の時(1924年/大正13年)鳥取の文芸誌『水脈(みお)』に発表した短編「花束」には、以下のような言葉があります。

「四つか五つの頃迄、私は、生れ故郷の山の中の小さい温泉場に育ちましたが、それから町に出て、私が小学校へ通つた頃には、もう私には、町に住むようになつた今の自分より、山の中の温泉場にゐた幼い私の方が幸福だつたと思ふ心が生まれてゐました。それ以来私には行けば行く所に追憶の溜息が従いて来ます。」

この「山の中の小さい温泉場」が岩美町の岩井温泉で、一家が出た町が鳥取市、そして小学校の名称が「面影」小学校だったのは不思議な巡り合わせでした。

「追憶」は、翠にとって特別の用語だったようで、「私に取つては、追憶は人生の清涼剤です」「追憶といふ心のはたらきは、人生の避難所の一つとして人間に与へられた宝玉だ」とも、同作品の中で記しています。

尾崎翠にとって「追憶」が、単なるノスタルジーや現実逃避でなかったことは、代表作の「第七官界彷徨」の冒頭が、以下のような言葉で始まっていることからも理解できます。

「よほど遠い過去のこと、秋から冬にかけての短い期間を、私は、変な家庭の一員としてすごした。そしてそのあひだに私はひとつの恋をしたやうである。」

これもまた追憶の中の物語であり、尾崎翠にとって「追憶」は、目の前の現実とは異なる、別の美しい、あるいは奇妙で懐かしい、新たな「現実」をこしらえる方法だったのではないでしょうか。

「花束」の中では、岩美町について、以下のようにも記しています。

「女学校を出た年の夏、私は海岸の祖母父の家へ身を寄せて、先生になりました。(中略)周囲や自然の所爲か—私は其頃殊に海が好きでしたから—あの頃が一番の私の詩人らしい時代だった気がします。」

この海岸は網代漁港で、先生を務めたのは蒲生川を遡った大岩尋常小学校です。
文芸誌への本格的なデビュー作「無風帯から」(1920年)では、岩井温泉を舞台にしましたが、尾崎翠が、作品の中で、いつも「追憶」し、「一番の私の詩人らしい時代」を過ごした岩美町に、全国の翠作品を愛する人たちが集い、語り合うことで、「尾崎翠フォーラム」以降のターニングポイントとなることを願っています。

翠が住んだ僧堂側から見下ろした網代漁港。向こうに砂丘が見える。

翠が住んだ僧堂側から見下ろした網代漁港。
向こうに砂丘が見える。
撮影=山﨑邦紀