村田喜代子さん講演「筋骨と花束」

村田喜代子さんの講演「花束と筋骨」。

 尾崎翠とお祖母さん

 こんにちは。私は北九州からまいりました。北九州は製鉄所のある鉄鋼の街でして、ここ尾崎翠の生まれた山陰の静けさをひとしお身に感じました。
 私が『第七官界彷徨』を初めて読んだのは三十代の半ばでした。まだ芥川賞を貰う前で子育てをしながらこつこつ小説を書いていた頃です。この作品に読んで非常に懐かしい思いがしたのは、お祖母さんが登場するからです。私は母が再婚して祖父母の家に残されて育ちました。それでお祖母さん子だったのです。『歩行』という短編に出てくる女の子には、自分の姿が重なるようでした。主人公も母親のいない家庭のようで、最後までそれには触れていなのですが、お祖母さんがおはぎの入った重箱を女の子に持たせてお使いに出す話です。
 このときのお祖母さん言う言葉がいいですね。おまえは蟻んこのような小さいものばかり見つめているが、それより今日はこのおはぎを持ってお使いに行って、うんと歩いてくるがいい。松木さんのところにおはぎを届けに行くのです。女の子は歩きながら、またいろいろと気塞ぎなことを考えながら行くのです。その辺りの孫娘と祖母の関わりに懐かしい気持ちになりました。そして孫娘をよくお使いに出したうちの祖母や、しゃがんで蟻んこなどを眺めていたりした孫の私の姿など何ともいえず似ていると思ったものです。

『第七官界彷徨』のお祖母さんは、孫娘の赤毛の縮れた髪を気にして、ビナンカズラの髪油を使わせます。そのときの年寄りの独特の物の言い方の細やかさに、尾崎翠もお祖母さん子だろうといつの間にか思い込んでいました。ところが彼女の年譜を見ましたら、祖母など出てこないんですね。お祖父さんはお寺のお坊さんだったようで、その人の名前は少し出てくるけど、祖母の名前はまったく出ない。
それでは尾崎翠の書く祖母はいったいどこから出てきたんでしょう。その謎は今も私の中にあり続けます。不思議なんですよ。何というか、こまごまと物事に気が付いて、それでいておおらかな祖母という存在の、母親より一回り大きくて古びた人の描き方がうまいのです。
 そしてストーリイの中では特別な役は持たないけれど、『第七官界彷徨』でも『歩行』でも実際の姿は現さず、底の方から作品の雰囲気をある種の渋味やユーモアでくるんでいる。月夜の影法師のように不思議な陰影を表しています。では尾崎翠はなぜどこにもいない祖母という人物を……、「少女」と「母」と「祖母」という女性の三態の像の真ん中を外して「母親」を取り払い、「少女」と「老婆」だけを向かい合わせて書いたんでしょう。そう疑問が湧いたとき、尾崎翠の小説を今までとは違うん見方で眺め始めたのでした。
 それまで翠の書く「女の子」は、戦前のいかにも神経過敏症的な娘が、気恥ずかしげに花束を差し出すような雰囲気だったのに、その差し出した花束の下から相応に年取った女の、したたかな手が覗いている……、とそんなことが、どこにもいないお祖母さんが描かれていたことで、わかったのです。
 いったい祖母とは何者だろうかといえば、母親というのは女ですよね。その母親が生殖機能を失って光も弱くなって、青白い月になった、それが祖母であろうと思います。すると現在のこの私も祖母であります。祖母の一人です。私には孫が一人おりまして、孫からみると私は「ばあば」以外の何者でもないようです。電話がかかってきたら即、小学五年生の孫娘の「ばあば」になります。ああ、そうか、私って月なんだって。もう太陽じゃないんだって。
そうなると翠の小説は、いわゆる少女小説なんだけど女の子とお月様の話なんですね。影が深いはずですね。

 尾崎翠の「女の子」小説

 尾崎翠の小説では必ず「女の子」という言い方をします。少女とは言わない。これも特別です。この呼び方は、今の時代ではなかなかイケてますね。少し以前は「おんな子ども」と妙に一括りにされた差別的な言葉でもありました。しかし現代では成人した女性がわざわざ自分のことを平気で「女子」と呼んでいたりする。「女子会」というけれど、結構な年齢の女性たちが集まっています。「女の子」や「女子」という言葉にはそれまでの「婦女子」とは違う、若々しさや快活さ、進歩的な特質が含まれている。ことに「女子」という言葉には従来の「婦人」層まで取り込まれている感じもするほどです。
 尾崎翠も現代に生きていればそんな「女子会」に入る「婦人」になるのかもしれません。けれど翠は『第七官界彷徨』という小説で「女の子」や「女子」や「婦女子」のすべてが、進歩的でもイケてもいなかった昭和初期に、ショールでなくて首巻きをはめた、今なら逆に羨ましがられる縮れた赤毛の「女の子」を登場させました。それが尾崎翠という作家が革新である証拠です。さらに、この子はお祖母さん子で、年寄りの言うことを後生大事に聞くのです。また作中での彼女の仕事は炊事洗濯掃除係です。といえば当時どこにでもいる代わり映えのしない女の子です。
 尾崎翠がこの「女の子」を創作したのは昭和五年から六年にかけてです。新しい小説作品の主人公として、お祖母さんから貰った首巻きをはめた年寄りっ子を据えたのです。翠の革新性と老獪さはそこに現れています。
 ところで「女の子」や「少女」に連なる「女子」という呼称は、本当のところどういう意味なのでしょうか。そしてそれは今流行りの「女子会」のように、比較的現代に生まれた言葉なのでしょうか。女子と言うときの気分は少々気取っているんですよね。イケてる女性という感じがありますね。
 ところが調べてみると、いつ頃だと思いますか。女子という言葉は時代を遡ると孔子の言葉を記録した『論語』という書物の中にすでに出ています。女子と小人(しょうじん)は養いがたし、という文章があります。これは差別的な意味合いで現代にも耳にすることがありますね。では「女子」と一緒に並べられた「小人」とは何でしょうか。子供のことではありません。これは物事を知らない愚かな人間のことを言うようです。私は長い間、「女の子」と同様に「小人」も子どものことだと勘違いしていました。映画館の切符売り場でよく見た「小人」と書かれた文字は子どものこと、小児を差していたはずです。でも『論語』の昔から世の中にはまた別の「小人」の定義があったのですね。その愚かな人間と「女子」は同列に論じられていたわけです。
『論語』が日本で読まれたのは江戸時代です。朝鮮の百済を通じて五世紀に日本に渡ってきたようです。孔子という人は紀元前五百五十年代に生まれた哲学者なのです。キリストが誕生する五百年くらい前です。のけぞるようにびっくりしたくなりますね。中国の歴史って、ものすごいです。日本とは桁が違う。まだ日本が縄文時代の頃、木の実など食べてる時に、孔子は「論語」を出している。女子と小人は養いがたしなどと言ったのですか、縄文時代に。恐るべき中国ですね。今も恐るべきですけど。

 とにかく大昔から「女子」は養い難い存在だった。文句は言うけれど生産はしない。ああ、でも女性は子どもを産むのですよ。これ以上に実際の生産はないはずですけど。ともかく尾崎翠はどうして女の子、女子にこれだけこだわったのか。そして、こだわりながら、じつはその女性性を否定するようなところがあります。女子を否定する。翠は小説の中では、女の子、女の子といいながら、彼女自身の身に於いては否定しているように思われます。作家の分身ではなさそうです。あるいはまた自分がそうではないからこそ、作中の「女の子」を愛しんでいる。気後れしがちで、繊細で、自己耽溺しやすくて、純真で、恥ずかしがり屋で、何より利発で賢い、大勢の「女の子」たちへのオマージュではないでしょうか。

 特異なエロス

 尾崎翠のいわゆる「女の子」小説で印象深いのは、主人公の女の子をわりと邪慳に扱っていることです。黒髪で肌は白く眼は星のようにはしないのです。わざわざ赤毛の縮れっ毛で、ソバカスの女の子。何だかルナールの『にんじん』に出て来る少年を連想しませんか。普通の女の子の愛らしさ、美しさを取っ払っています。それは主人公がはめる「襟巻き」の呼び方についてもそうです。昔は私の祖母たちも普通に襟巻きと言っていたように記憶しています。それを作中では「首巻き」と主人公の女の子に言わせています。襟といえば娘の細く白いうなじなどのイメージをよぶのに、首といえば首縊りみたいで、何だかミもふたもないと思いませんか。翠は女性的なイメージを一つずつ消していきますね。その屈折した言葉使いのぞんざいさが逆に新鮮でゾクゾクします。
『第七官界彷徨』の名場面の一つに、従兄弟の三五郎が主人公の髪を切ってやるところがあります。田舎ならお祖母さんがしてくれる縮れ毛の髪の手入れを、ここでは男の子、つまり年上の少年が代わってやっています。でも三五郎は情け容赦なくバサバサ切り落としていくので、女の子は悲しくてうつむいて泣きます。この辺りはちょっと痛々しい気もする場面で、性的関係のアブノーマルな変形バージョンという感じが濃厚です。しかし女の子はやがて眠くなってうつらうつらする。ここが尾崎翠の描く女の子のキュートな愛らしさです。今泣いていたのに、もう眠い。アッケラカンとした単純さが男の子に似ています。
 そして次が重要です。切った髪の毛の粉が女の膝に落ちていくのですね。髪の粉です、粉ですって! 黒髪の切り屑ではなくて、翠はあえて「粉」と書きます。髪は油を含んで艶めかしいものですが、「粉」というと乾燥して、女性の頭髪が持つイメージが断たれます。髪の「粉」の次にこれはまた奇想天外な表現が登場します。床の間の蘚を発情させるため、部屋の隅で「こやし」を鍋に入れて煮ているのですが、それが小豆の煮える「あんこ」の鍋に変貌するのです。「第七官界彷徨」中の仰天ものの場面です。肥やしとは人糞ですね。それを煮る。練炭の火か炭かわかりませんが、部屋でふつふつと煮えている。髪の毛を切られながら眠る女の子の耳に、その肥やしのふつふつと煮える音が、田舎のお祖母さんが小豆を煮ている音とだぶって聞こえてきます。この辺りの場面は映画シーンのように眼に浮かんで秀逸で、女の子の描かれ方もまた絶品というしかありません。どうして肥やしが小豆のあんこになるでしょう。それを眼に見えるように実現させてしまったのです。
 このくだりはモダンな外国映画か何かの、クローズアップ場面を観ているような気がします。まず鍋の肥やしにカメラがクローズアップしていって、次に小豆の煮える鍋へとオーバーラップするのです。こんなところは翠の映画好きが効を奏しているように思えます。

 情緒的場面を否定する翠のやり方は、一方で上等のユーモアを醸し出します。『歩行』では女の子がおはぎの重箱を持って松木さんのところにお使いに行く道々、野を歩きながら、旅の途中でふらりと訪れた兄の友人のことを思い出します。この青年は滞在中、女の子に戯曲の娘役のセリフを読んでくれと頼んだのです。二階の窓辺に腰掛けて彼が男役のセリフを、女の子は娘役のセリフを読み合います。そのセリフが男女の恋愛の戯曲であることはいうまでもない筋立てです。翠はじつに精密に奥深く小説の仕掛けを作ります。「女の子」小説がこんなに構造的に組み立てられていることに驚きます。
「ああ、フモールさま、あなたは行っておしまいになるんですね」と女の子が、恋する娘の熱いセリフを読み上げます。すると兄の友人である青年は男役のセリフを読みながら、横着にも窓辺の柿の木に手を伸ばすと、一つもぎ取って口へ入れるのです。その声が柿を含んでいるせいで、ある物悲しい響きと共に女の子の耳へ入ってくるという設定です。戯曲の愛のセリフですからムードとしては最高潮といえるでしょう。老獪な翠という演出家が舞台の影に立っています。それが見える気がします。可笑しいことはおかしいけれど、しかし主人公の女の子にとってみればもう最高のラブシーンの再現です。これが初恋とすれば女の子の片恋の哀れさに、抱き締めてやりたいような気持ちがします。
 さて旅の青年が去って行った後、女の子は愛のセリフをしゃべった口が今はただ寂しい。そんなことを『歩行』の女の子は野の風に吹かれながら追憶するのです。

 小説ほどには知られていないけれど、翠の作品に「青い櫛」という詩があります。これもさっき言ったように独特のユーモアの変換が素晴らしい。女性の使う何でもない櫛が、翠にかかるとヒョイと胡瓜になったりします。

 お隣のお婆さんが胡瓜を刻んでゐる。/カチカチカチ……。/ぎん色に光る包丁の歯の下から丁度美しい女の前髪に挿すやうな、青くふち取られた櫛が幾つも幾つも生まれてくる。/お婆さんの手の早いこと、いくら経つても止まらない。/カチカチカチ……。

 櫛という女性の情念的な小道具を、翠はここでも不似合いな老婆と組ませます。それでありながらも胡瓜の櫛はみずみずしく美しい。さすが尾崎翠ならではの一風変わった情念の発露に感動します。

 後半生へ

 尾崎翠の生まれたのは樋口一葉とほぼ同時代です。『第七官界彷徨』を書き始める前の年辺りになる頃、芥川龍之介が自殺しています。昭和六年、『第七官界彷徨』の連載が始った年に満州事変が勃発しました。日本が西欧諸国の後を追って植民地を得るため戦争へと突入し始めた時代です。一方で世界大戦へと突き進む入り口辺りの怖い時です。故郷の鳥取から東京に出た翠は時代の空気をどう感じたしょうか。当初、彼女は『無風帯から』を書いて大学の波紋を呼び退学する羽目になりました。女性が小説を書いて非難される時代です。女性が文学をしていくことは本当に苦しい。仕事がないわけです。林芙美子は身体を売って文学をやったというような話もないではありません。そんなときに作風を一新した『第七官界彷徨』が世に出て斬新奇抜な作風が感性高い文芸家たちの耳目を集めることになりました。同じ年にこれまた傑作の『歩行』という短編を出します。
 ところが翠の不幸は、尾崎文学の頂点となるこれらの作品を出した翌年、突然に文学的終焉を迎えねばならなかったことです。頭痛薬の影響で幻覚症状に襲われるようになっていた彼女は、兄に故郷の鳥取へ連れ戻されました。短い東京での文学的絶頂期に突然、引き剥がされるようにして汽車へ乗せられる。走る汽車の窓から飛び降りかけたという話もあり、何と無念であったろうかと思います。
 さて鳥取へ帰った翠の人生は、そこからガラリと景色が変わってしまいます。精神の病気は癒えたけれど,結婚はついにしなかった。その後の生活は逞しい主婦のように、早死にした妹が残した三人の子どもを育てました。三人です。私は二人のこどもを育てましたが、自分の生んだ二人の子でさえ養育するのは大変だったと感じています。鳥取時代の翠は甥や姪たちには肝の据わった、壮快かつ情愛に溢れた叔母さんであったようですね。そうして彼女は年を取りおばあさんになりました。翠がかつて『第七官界』や『歩行』で描いたお祖母さんのような年寄りになったのでしょう。後半生は翠にとってある意味では幸せな日々だったのではないかと私には思われます。甥姪を三人育て上げた彼女は家庭というものを持たなかった代わりに、疑似家庭を与えられました。翠は七十五歳で亡くなっていますが、この年齢の死が当時としても早いかどうかは、現代の私にはよくわかりません。年譜には高血圧と老衰のためと書いてあるようですが、老衰の年とはいえない気がします。
 さていよいよ死の迫ったとき翠は、「このまま死ぬのなら、むごいものだねえ」と言ったということが定説になっていますが、私、これは聞き違えではないかと思います。逆ではないでしょうか。つまり「このまま生きるならむごいものだもの」と言うような言葉ではなかったのでしょうか。「だからもうここで死んでもいいのよ」と、枕辺の人たちに言う方が自然です。可愛い妹の遺児たちに看取られて、仮のお祖母さん役も果たし終えて臨終を迎える。文学は遠い昔に捨てたのだから、もうこれで死んでも悔いは残らない。このまま助かって病身で生き続けるほうが年寄りにはむごいかもしれない。
 いずれにしろ尾崎翠ほどの腹の太い女性が、死ぬのはむごいと、そんな未練なことは言わないだろうと疑問を持ったものでした。

 私は尾崎翠の容貌が好きです。顎が張って断髪で、オードリー・ヘプバーンやイングリット・バーグマンなど、顎の張ってる女性に憧れます。あごは意志であると思います。ちなみに私は顎が細いのです。翠は非常に意志的な顔立ちでしたね。意志の塊のような人だったのではないでしょうか。ベートーヴェンのデスマスクに似てるなんて話もあるけれど、ベートーヴェンなら立派なものだと思いますね。
「赤(あか)蜻(とん)蛉(ぼ)」という三木露風作詞の童謡をご存じですね。これが歌われた時代は尾崎翠の若い時と重なります。それがどんな世情だったか、たとえば詞の二番はこうです。

 十五で ねえやは 嫁に行き お里のたよりも 絶えはてた。

 このフレーズにあるように、当時の娘たちはわずか十四、五歳で嫁にやられていたのですね。同年配の私の祖母もその十五歳で嫁ぎました。
 野口雨情作詞の「雨降りお月さん」も愛された歌です。

 雨降りお月さん 雲の蔭、お嫁にゆくときや 誰とゆく
 ひとりで傘(からかさ) さしてゆく
 傘ないときや 誰とゆく シャラシャラ シヤンシヤン 鈴つけた お馬にゆられて 濡れてゆく

 お月さんも嫁に行かなければならないのですね。それでたったひとりで唐傘をさして行くんです。でも傘がないときはどうするの。そのときは、シャラシャラ シヤンシヤンと鈴をつけた馬に乗って行くというように、結局どうやってもこうやっても嫁に行かされるのですね。

 こういう歌の流れる時代、尾崎翠は東京の女子大へ行って、病気を得て東京から帰ってきても、嫁には行かなくてすみ、妹の子どもたちを育て、兄の末期の面倒も献身的にみています。何だかこう考えると私には翠だからこそ、「田舎に帰れ」と天の要請があったのではないかと。天の神様とでもいいますか。もう『第七官界彷徨』と『歩行』も書いたんだから、おまえは早く生家に帰って今度はこの世の身内の役に立ちなさいと。兄の亡くなるまでの世話、妹の遺児たちの養育と大変な現実をやり通した。尾崎翠の人生後半のこの心ばえのある仕事こそ、大胆不敵な彼女の面貌にもう一つの情味を差すものとして、しみじみ写真に見入ることがあります。

村田喜代子さんQ&A

浜野「ありがとうございました。私は「第七官界彷徨」の映画化から十八年、ずっと尾崎翠と向き合ってきたんですけど、翠の人生において私が最初からずっと違和感を持っていたことを、今日村田さんが言ってくださって本当に腑に落ちました。私が一番引っかかってきた、こんな作品を書いた尾崎翠が何故?って言うのが「このまま死ぬのなら、むごいものだねえ」という言葉だったんですよ。この言葉は、尾崎翠を私物化していた稲垣眞美という文芸評論家が流したエピソードなんです。だから映画『第七官界彷徨―尾崎翠を探して』でも、「このまま死ぬのかねえ」と呟いて微笑む。「むごいものだねえ」は言わせなかったんです。
でも、それでよかったのか、どうなのか、未だに引っかかっていたんですけど、先ほど村田さんが本当は「このまま生きるなら、むごいものだねえ」という言葉ではないかとおっしゃってくれたことで、翠の人生や、姪や甥を育てたことなど甦ってきて、そうか、「このまま生きるなら、むごいものだねえ」という言葉こそが、あの時代にあえて筆を折り、あの時代にあえて結婚もせずに、あの時代に自分らしく生き抜いた翠の最後の言葉として本当に腑に落ちました」

岩谷「私は、尾崎翠フォーラムの活動をずっと委員としてやってきた岩谷と言います。お聞きしたいことは小説の書き方が初期の例えば「花束」とかあの手の書き方と「第七官界」以降の小説の書き方とちょっと変わってきてますね。私のとらえ方としては初期の方が写実主義、それから後期の方が、モダニズム、全然変わった作品になってる。そのあたりの大きな変わり目について村田さんの考えておられること、感じておられることをお聞きしたいと思います」
村田「小説は文体です。それはつまり形式というか、形ですね、造形です。絵でも文章でも結局どのように造形するかなんです。そこで、私は例えば『無風帯』などを読んでも、あまり面白く感じないんですよ。初期にはやはり今おっしゃったような従来からのリアリズムを踏んでいるんですね。
 初期といえども尾崎翠はあんな特別な感性の持ち主ですから、随所にオッと思う箇所は出てきますが、『第七官界』以前は、まだやっぱり独自の造形を意識していない。『第七官界』になったときに、あんな風に獲得したんですね。また『歩行』が私は一番好きなんですけど、あの短かさになると、本当にもう文体だけで書けるんですね。ストーリィも思想もいらない。文体がそんなものすべて背負っている。だから私はあれこそ、翠が文体でもって普通の「女の子」を造形したんだと思っています。『歩行』の女の子がお祖母さん子ではなくてもっと進歩的な少女だったら、あのストーリィは一歩も進むことができません。もう堂々たる見事な「普通」の作り物だと感心します。
 自分のことを考えても、年取ってきますと人間はやはり丸くなります。角のある石がこすれて尖りがなくなる。若い頃は尖った感覚でもう一心に書いてたのが、最近はリアリズムに転じたっていうような評もある。リアリズムに転じてなんかないつもりだけど、やっぱり掴み方が弱くなるんですね。感覚派でいるのは力がいるんです。
 尾崎翠は最高に力のある時に『第七官界彷徨』を作ったんですね。作るっていうのは、ねじ伏せるんですよ。現実をねじ伏せないと出来ないんです。だから、現実と折り合いながら書くっていうのがリアリズム。それに対して、現実をもうバキバキ折ってしまって作るのは腕力です。その腕力をもって二つの作品を書いて(やっぱり最高と言ったらあの二つですねえ)、だから頭痛とか体調が悪くなるのもあったと思いますね。あの二つ書いたとき完全燃焼したと思います。『無風帯』の文体を見ると、本当に別人かと思います。
 それで私は尾崎翠の作品なら何でも好きということではないので、途中で読まなかった作品もいっぱいあるんです。ぱっと見て、ああこれは読みたくないって、もうその二作に尽きる。どっちかと言うと『アップルパイの午後』も私的にはちょっと違うんですね。しかし、尾崎翠が凄いのは、リアリズムを完全に排除してるのに、あの凄い逆照射のリアリズムがあることです。「人糞」=「あんこ」の場面のリアリズム、髪の毛の粉が落ちるあのリアリズム、青い櫛、胡瓜の櫛のリアリズム。凄い説得力です。もしも翠が東京にあのままいたら、どんな作品が出来たかとふと思うこともあります。けれどその思考はパタリと止まります。翠はその後は書いていない、とこれが現実です。もしも、と思うことは事実を貶めます。彼女は書かなかった。事実、鳥取に帰っても書いていない。あの『第七官界彷徨』と『歩行』を田舎に帰り際、東京に置いて踵を返したんですね。それが尾崎翠という稀有な作家の稀有な人生だったと思います」